コレッジョやパルミジャニーノのパルマ(エミリア=ロマーニャ地方)・・・・・川ひとつはさんで向こう側はロンバルディア地方。ってことは、、だから、ルネサンスごろのパルマは、諸勢力の腕力がぶつかり合い、教皇庁の思惑と有力者のわがままが交錯していた。
教皇パオロ3世(在位:1534-49)は、ロンバルディア地方のスペイン勢力と教皇庁のあいだに緩衝地帯をもうけようと、そこにじぶんの息子を据えてパルマ公国(パルマおよびピアチェンツァ)とした。
それ以降200年にわたり、パルマは「ファルネーゼ家のパルマ公国」であり続ける。小公国ではあったし、縁故関係からしても力関係からしても、スペインがシカとにらみをきかしていた。
それが1700年代後半、ファルネーゼ家にフランス王ルイ15世の娘が嫁ぎ、フランスの影響力が俄然増す。そしてフランス人が多くこの地に入り込んだ。
スタンダール(1783-1842)もまた知己がたくさんパルマにいて、そこいらへんから『パルムの僧院 La Chartreuse de Parma(1839年)』の着想を得たのだろうか。
Photo courtesy of portale parma
マリー・ルイーズ (1791-1847)
ナポレオン時代になると、ナポレオン2番目の妻マリー・ルイーズ(1815-1847:オーストリア皇女)がパルマ公となる。マリー・ルイーズはナポレオン後も一代かぎりのパルマ公国統治を許され、あしかけ30年間(1816-47)、パルマ公国を治めた。
のちイタリア統一の精神面で一役負うことになるジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)がこのパルマ公国の一小村で生まれ、ひょんなことから個人的にマリー・ルイーズと会っている。
(2005.04.20.)
パルマ公末裔の写真がでてておもしろい〜
http://www.geocities.com/henrivanoene/genparma.html
■ コレッジョとパルミジャニーノ