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イタリアの美術評論とスタンダール

Stendhalイタリアには世界でも指折りの共産党があった。(最近分裂)社会矛盾にたいして、イタリア社会はじゅうぶんに鋭い感性を向けてきた。また、「緑の党」の躍進も当初から目覚ましかった。原発をすぐやめ、動物愛護のおたけびをあげた最初の国のひとつで、毛皮の代替製品がすぐさま開発された。女性がコートをはおるのに手をかすことを男が拒否するようになり、最近では死刑制度廃止を決めた。

むろんイタリアも、御多分にもれずマスコミにあおられていると感じることがある。死刑制度廃止の折りがそうだった。朝カフェに入る。「たまげたことだ。」とアメリカでの死刑執行の記事を読みながら皆が嘆いている。イタリアが昨日までどのようなことをしてきたのかはきれいさっぱりと忘れて、インテリからバールのおばさんまで、突然全員が仏教徒みたいになってしまうのは滑稽でさえある。

こういうのはどこの国でもあることだが、イタリアはそのなかでもそういう「あおられる」という面が比較的すくなかった国のひとつだった。ともあれ、社会矛盾をいち早く看破し革新を重ねてきたイタリア人の感性と実行力には、評価すべきものがたしかにある。

一方、イタリア社会にはおどろくほど陳腐でクラシックな面も存在する。映画のなかにででも出てきそうな、杓子定規でクラシックなものの考え方をする教師たち。ハイヒールをはきセクシーでシックな女性のことを「ドンニーナ(ドンナは女性)」と言って嘲笑する反面、「男」は情熱的に「ドンニーナ」を愛し、「ドンニーナ」であるようにつとめている女性はたくさんいる。また、元パルチザンで共産党のシンパが、ネクタイ着用の排他的でハイソなクラブで詩の朗読をしていてもすこしもおかしくないのがイタリアだ。

イタリア人はカジュアルな服装を好む。そしておなじぐらい、超クラシックな装いの男たちを街角で見かける。それはイギリス人やアメリカ人の「トラディショナル」とはちがう。「オレは超金持ちなんだ。」「オレは庶民とはチガウんだ。」ということをヤケにかんじさせるヤツだ。(だからと言って、そのオッチャンがかならずしもハイソとはかぎらない。たいがいそうではない。)

イギリス人やアメリカ人の「トラディショナル」は着こなせても、イタリア人の「トラディショナル」をマネできる日本人はすくない。なぜかというと、イタリア人のおもいえがくような「ハイソ」なイメージが日本人の頭のなかにはないからだ。(だから、マネをしようなんてそもそもおもわないんだけど。)イタリアの「ハイソ」はわるびれない。「ハイソ」であることをイヤラシくもあからさまに主張する。

Stendhalところで、こういうイタリア社会のなんともアンバランスな局面が、美術評論にもまた顔をだす。イタリア人の書いた美術評論のなかには、はっきりいってなにを言いたいのかよく分からないものがたくさんある。当のイタリア人にさえチンプンカンプンなのだ。美術評論家たちは修辞技術や韻律の美しさを競い合う。ふつうのひとには分からないような文章が書けるようになってはじめて、美術評論界という文学サークルで認められる!

美術作品について語るのに、修辞技術や韻律の美しさを訳してもちっともおもしろくないから、できるだけなにを言おうとしているのかを汲み取って訳そうとおもう。ところが、そもそも美しい体裁であることを主目的として書かれた文章から、その体裁の部分を取ってしまうとあとにはなにも残らない、なんてことになってしまう。いまからおよそ200年ぐらい前に、スタンダールはイタリアについてこんなことを言っている。(以下「Rome, Naples et Florence, en 1817」要約)

いわゆるイタリア語(トスカーナ語)とそれ以外の地方の言語が並立しているために、話し言葉がそのまま書き言葉にならない。手紙を書くときでさえも辞書を脇に置く。恋人や恋敵に向かってしか文章に熱がこもらない。そもそもむずかしい観念を明晰に表現するということにイタリア人は関心をもたない。それよりもヴェルギリウス(BC70-BC19)やダンテ(1265-1321)の文体を追従することのほうを重んじる。このペダンティズム(衒学的:わざと難しい表現をする)こそが、世界でもっとも情熱的な民族が書く文章を凍てつかせている。イタリアの作家の注意は、こうして「文体を美しくつくろうこと」に向けられている。

ところで、標準語と地方の言葉の格差は現代においてもなくなったわけではない。学校で教わった言葉を家庭で話せば周りの人たちからからかわれるという現実が、ロンバルディア地方でさえつい最近まであった。スタンダールはさらにこうも言っている。

明晰なドイツ人を見つけるのがむずかしいように、くだくだしくないイタリア人を見つけるのは困難だ。・・・イタリア人はフランス人と機知を競うことができても、印刷されたイタリア人の機知はフランスの場末でさえもやじられるにちがいない。

スタンダールがこう書いてから200年、イタリア文学の世界はずいぶんと変わった。ひじょうにフランクな表現をする小説家もいれば、ぎゃくに地方の言葉ですばらしい詩を書く人たちもいる。しかしイタリアの美術評論を前にしたとき、あるいはイタリア人が書く文章の一般的な傾向について、200年前のスタンダールの洞察には、いまもハタと膝を叩きたくなるようなところがある。

(2001.10.24.)(2001.10.27. 美術評論典型例追加)(2002.04.15. 書き改め)

※  ファイル中の作品: クラウディオ・ミッサジャ(Claudio Missagia)

典型的なイタリアの美術評、たとえば・・

■ ベアトリーチェ・チニッティ評
■ エリーザ・ビアンコ評

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