EKAKINOKI

だれにでもできるインスタレーション

「美術館でさ、ただの石とかがまあるく並べてあったり、美術館の備品だか展示作品だかよくわかんないようなものがあったりするじゃない、、インスタレーションってあれよ、あれ。」・・・インスタレーションについてこれよりわかりやすい説明というのは、あるのかなぁ、、、?

「イリア・カバコフの芸術(沼野充義/五柳書院)」という本のなかで、カバコフがおもしろいことを言ってます。

(以下引用)

カバコフの作品「十のアルバム(1972-75)」のページ

「自分の作ったインスタレーションがここでどのような役割を果たしているのか、私にはわかりません。自分にいかなる課題を課しているのかもわからないのです。」

(引用おわり)

木や石や鉄をならべただけのもんが価値があんのか・・・・・やっているほうも見ているほうも、ほんとうのところ、たぶんまだよくわかんないジョータイ、、?でもひとつだけはっきりしていることがある。

それは「インスタレーション」が、絵画も含めた美術の流れのなかで必然的に、どうしようもなく生まれてきたものだということ。かつてモネが印象派にたどりついたのとおなじように、インスタレーションはアートの新しい表現であり・・・このことは、だれにも否定できない。

しかし順調に育っていくこども(インスタレーション)を見ていると、それは親(従来のアート)とはまるで似ていない。

技術的に・・・・・たとえば石をまあるく並べることぐらい、だれにだってできる。石は石、円は円。しかもインスタレーションは、そこに込められているイミ合いのほうが大切なのであって、どういうふうに石を並べるかということはむしろアバウト(おおざっぱ)でよいはず。石の位置が右に左に1センチずれたってどってことない。

内容・・・・・それぞれのインスタレーション作品にどのようなイミが込められているか、にしても、もちろん視覚的なものの場合もあるが、そればかりではなく、社会的なもの、自然を相手にしたもの、、、、なんでもアリ。しかもそのイミというのは、「感性による構成」であって、けっしてガチガチの「セオリー(理論)」ではない。

これだけみたら、インスタレーションにとくべつな美術訓練はいらない。おもしろいとおもうシチュエーションを、具体的にじぶんの生活に挿入してみればいい。それがインスタレーションで、やろうとおもえばだれにでもできる。技術的にじぶんでできないことがあれば、オーガナイザーに徹すればいい。

しかし、生活と言っても十人十色だし、文化的背景がちがえばオモシロイとおもうこともみなかなりチガウ。もちろん「質の高いインスタレーション=だれにでも共通するようなイミの普遍化」ってのはあるとおもう。だけど時代も文化背景もちがえば、わからないほうが当たり前ってことが、インスタレーションには多々ある。

たとえばボイス(1921-86)の作品で、フェルトのスーツがハンガーにかかってるだけの作品を最近見た。スーツだよ、スーツ。。フェルトは防寒につかったりするのだけれど、寒い国でフェルトの長靴とかはいてるのは、超超貧乏。それでスーツってとこがおもしろい。ツマラナイことかもしれないけれど、そういう文化的背景がないと、直行で体感するのはしんどい、でしょ?

でもでも、、、ひとそれぞれにおもしろいとおもうインスタレーションがあるのはたしかで、じぶんがおもしろいとおもうインスタレーションをどんどんやってみればいい。学校で子供たちにやらせてみたら?

技術的には、じぶんにできる範囲内で工夫してやればいい。っていうか・・そういうことをかんがえていると、身のまわりにあるモノから逆に表現したいことが浮かんでくる、なんてこともあったりして。。みてくれはアバウトアバウト。へたくそな絵が描いてあってもノープロブレム。イミが伝わればOK〜。アートだからってむずかしく考える必要はない。

そもそも、、インスタレーションはアートだなんてこだわる必要はぜんぜんないようにおもう。ロケットのことを宇宙用飛行機なんて言わないように、インスタレーションはインスタレーション、いずれそうなる、、?

もちろん、いますぐアートという親から離れてひとり立ちセイ、とか言われても、インスタレーションも困っちゃうナ・・・発表の場が減るし(→まだそんなにジツリョクがない)、ひとりでやってても「なにばかなことやってんの」ってことになるし(→アートじゃなきゃ振り返ってくれるひとがいなくなる)、アートと袂をわかつと有名になるのもよけいキビシイだろうなぁ。。

(2004.07.21.)

かんれんファイル

■ カバコフ作品参考リンク

絵画 ロシア イタリア