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デュラスのベーコン・インタビュー

ただの土がアートになるとき・・

マルグリット・デュラス(Marguerite Duras 1914-1996)のエッセイをまとめた『アウトサイド(原著1981年)/晶文社・佐藤和生訳』のなかに、フランシス・ベーコン(1909-1992)へのインタビューがあって、これはけっこうおもしろかったです。以下は、ベーコンの発言を要約しながらの感想。(デュラスはもっぱらインタビュアーに徹しています。)

「わたしはデッサンはしません。あらゆる種類のタッシュ(しみ・色斑)を作ることからはじめます。」ベーコンはさらに説明をつづけます。「しかし・・」(以下要約)

タッシュはあくまでタッシュであり『偶発事』なのです。そこになにを見ようが想像しようが、それじたいは作品ではありません。それはちょうど、なにか奇怪なことを想像するのと似ています。奇怪な想像もまたたんなる想像であって、まだ創作物ではありません。『タッシュのような偶発事』や『奇怪な想像』が『作品』になるのは、そこにアーティストの『技術的想像力(=アーティストの力)』が加わったときです。

すこしベーコンの言葉から引用してみます:

・・・土を掘りだし、画廊にそれを展示する若い画家たちがいます。それは愚かなことで技術的想像力の欠如を証明しています。ついにそこにいたるほど彼らがテーマを変えたがっていることには興味があります。土くれを掘りだして台座の上に置くこと。しかし必要なのは、彼らが土を掘りだすその「力」が「ひっくり返る」ことです。・・・

(引用おわり)

ここでベーコンが『土』と言っているのは、『土』だってもちろんかまわないのですが、なにか日常のごくありふれたものの一例、だともかんがえられます。そういうありふれたものをあえてとりあげ、ギャラリーに展示するという発想は、それじたいがなんらかの『主張』をもっている場合はあります。

また、鑑賞者が作品になにを見ようが勝手ですし、アーティストがひとつの作品を作るために状況や鑑賞者をも作品の一要素として巻き込もうが、それも勝手です。

しかしもしそれが『たんなる発想の提供』にすぎないのであれば、それはベーコンが言う『タッシュ』であり『偶発事』であり、いまだ『作品』ではない、ということになります。

『アーティストの力』は、『タッシュ』であり『偶発事』である『たんなる土(土がもつ意味)』を、ほかのなにものかに変えます。もしアーティストの力がおよばなければ、『展示された土』は、いくらためつすがめつしても『ただの土』、『抽象絵画』などはさしずめ『ただの色彩装飾』・・

よく考えてみるとベーコンのこの指摘はごくあたり前のことなのですが、そのあたり前のことをあらためて認識してみると、それはどのようなアートにも共通して言えるようにおもえます。ことに現代アート・・土でも木でもカバンでも缶詰めでも・・なんでもござれのそれらがどこまでアートしているのか、ちょっと考えてみる価値はある。

BBSより

ミンチカさん/盛型が美しくなかった?

土を台座の上に展示。。。?私は直感的に“本当の土ドサッ”と感じちゃった。フルイにかけて虫を除けた赤土、黒土が瞼の裏に〜。

先に日本で行われたヴォルフガング・ライプ氏の花粉と牛乳によるアートを思い出しました。ライプ氏の“四角く広げた花粉とそれに降り注ぐ自然の光?芸術”には精霊の神秘さえ感じそうですが(実際に作品の前に前に立ってみないと分らない)

ヴォルフガング・ライプ氏の花粉芸術画像が見れるページにリンク付けておきます。↓  花粉症の方は要注意!
http://www.momat.go.jp/Wolfgang_Laib/wolfga..

TOMさん

デュラスとベーコンの対談はとても興味深いですね。私は両者とも大ファン。デュラスの研ぎ澄まされながら傷口を見せたような痛々しい文章とベーコンのまさに傷口をさらしたような絵画がシンクロします。

先日、デュラスの最後の愛人が書いた本をもとにした映画『デュラスー愛の最終章』が上映されたので多忙の中、見てきましたが、がっかりでした。たぶんアンドレアの原作が凡庸だったんだと思います。曖昧さを嫌うデュラス本人は許さないだろうと思いました。
映画『ラマン』は有名ですが、原作者デュラス本人は嫌っていますね。デュラスの撮った映画『インディアソング』は感傷がちですが、私はとても好きでした。

かんれんファイル

■ フランシス・ベーコン
■ 映画になったデュラス作品をめぐって

(2003.03.10.)

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