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ダ・ヴィンチ&チェーザレ・ボルジア

Leonardo da Vinci 1452-1519 / Cesare Borgia 1475-1507

Cesare Borgiaレオナルド・ダ・ヴィンチがチェーザレ・ボルジアの『軍事技術顧問』として働いていたのは、実質的には一年ぐらいでしかなかった。そのためか、センモンがちがうこのふたりの天才が手を組んでいたということに、いまひとつ現実味がない。

ところで、レオナルド・ダ・ヴィンチはチェーザレ・ボルジアのことをどうおもっていたのだろう?チェーザレ・ボルジアは?

塩野七生氏が著書のなかでこんなことを書いていた。「ふたりは、おたがいになにか共通するものを感じていた。」ふむ、、、で、・・・その「共通するもの」ってなんだ?

ミラノのスフォルツァ家がフランスの手に落ちたあと、スフォルツァ家で働いていたレオナルド・ダ・ヴィンチの『放浪生活』がはじまる。マントヴァ・・・ヴェネツィア・・・フィレンツェ・・・ボローニャ(1502-03)・・・またフィレンツェ(1503-06/1507-08)・・・ミラノ(1506-13)・・・ローマ(1513-16)・・・そしてフランス(1516/1517-19)。

そのあいだに『アンギアーリの戦い』や『モナリザ』を描き・・飛行機を作ろうなんてしていた。そんな『放浪生活』のなかで、レオナルド・ダ・ヴィンチがチェーザレ・ボルジアの軍事技術顧問となったのが1502年。

ときの教皇はアレクサンデル6世(在位:1492〜1503)・・・世界をスペインとポルトガルで2分することに決めた教皇だ。チェーザレ・ボルジアはこのアレクサンデル6世の息子。20代でロマーニャ公国(ボローニャがあるあたり)のあるじとなり、教皇軍の統率者でもあった。

権謀術策渦巻く当時のイタリアでも、さらに輪をかけて、チェーザレ・ボルジアは非情で抜け目のない策略家であり、また黒い噂もたんまりとあった。しかしいずれも真偽のほどがわかっていないのだから、たいしたモンだ!フランス、スペイン、イギリスと、世界をまたにかけて駆け回る姿はいまならさしずめスーパー・ビジネスマン。

チェーザレ・ボルジアにどういう評価をくだすかはいろいろだろうが・・・イタリア(現在の)ではけっこう人気がある。イタリア全土の支配すら眼中にはいっていたこの男の将来に、政治力学の冷徹な観察者マキャベッリも注目していた。

Cesare Borgia1502年、チェーザレ・ボルジアとレオナルド・ダ・ヴィンチが手を組んだとき、たしかに塩野氏が言われるように、共通するなにかをお互いにピピピッと感じたんだろう。

ナニカとはおそらく・・・「既成概念なんて歯牙にもかけず、しかし明晰さを欠くことなく目的に突っ走っていく力強さ」とか?(レオナルド・ダ・ヴィンチがチェーザレ・ボルジアに惚れた?もしかしてそれもあったりして・・・。)ともかくレオナルド・ダ・ヴィンチはじぶんの力量を正当に評価してくれる人間に出会った。

当時のイタリアは、いつ戦争が起きても、またその結果とんでもないところで仕事をする羽目になってもおかしくなかったから、チェーザレ・ボルジアのようなニンゲンは、君主として頼もしい以上の存在だったろう。たぶんレオナルド・ダ・ヴィンチは、この出会いがもたらすだろう将来に、おおいに期待していたんじゃないかとおもう。チェーザレ・ボルジア27才、レオナルド・ダ・ヴィンチ50才。

ところが・・・・・

1503年夏、ローマはマラリア騒ぎで、教皇アレクサンデル6世ばかりかチェーザレ・ボルジア自身までが高熱に襲われ倒れてしまう。父親の教皇アレクサンデル6世は死に、チェーザレ・ボルジアはかろうじて一命をとりとめた。しかしこのあとのチェーザレ・ボルジアは、まったく『らしくないドジ』ばかり踏みつづけることになる。

「高熱に頭をやられた」というのがいちばん納得がいく説明だとおもえるほどに、チェーザレ・ボルジアからかつての天才的な冴えがまるでなくなった。そして天下のチェーザレ・ボルジアは、坂をころげ落ちるように、あっという間に、凋落していく。

まず、かつて妹ルクレツィア・ボルジアを結婚させた相手、アラゴン王国王子を暗殺したとされる件で、チェーザレ・ボルジアはスペインにしょっぴかれた。いったんは逃亡したものの・・・けっきょくなんのことはない・・・1507年に彼の地でのたれ死に同然。

いっぽうのレオナルド・ダ・ヴィンチはフィレンツェに舞い戻り、壁画制作『アンギアーリ戦』『カッシーナ戦』をミケランジェロとともに依頼されている。(・・両者とも未完におわった。)

チェーザレ・ボルジアとレオナルド・ダ・ヴィンチのピピピッの出会い・・・ふたりの強烈な個性の共振は、なにかしらをのちに産み落としてもよさそうなものだった。せめて、、「生涯を通して心の支えになった」とか「あんな男にはそれ以前にもそれ以後にも出会わなかった」とか、そのぐらいはレオナルド・ダ・ヴィンチの口から聞いてみたかった・・・

『史上最強のコンビ』はチェーザレ・ボルジアの凋落とともに解消し・・・そこでプッツンと途切れている。

(2001.10.14.)(2002.08.14. 見直し)(2004.05.07. 見回り)

※ ファイル中の画像: (上)レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたチェーザレ・ボルジア 部分 1502年ごろ Royal Library(トリーノ) (下)フランソワ1世の庇護下にあったレオナルド・ダ・ヴィンチ最後の居所フランス・アンボワーズ近郊クル。

おもしろい本

■ 『ボルジア家の黄金の血』フランソワーズ・サガン/鷲見洋一訳(新潮社)

かんれんファイル

■ スフォルツァ家とミラノの命運
■ ヴァティカンのボルジアの間(Photos)
■ レオナルド・ダ・ヴィンチの『アンギアーリ戦』
■ ダ・ヴィンチは料理の達人だった。

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