Federico da Montefeltro 1422-82
ルネサンス時代、君主・領主が美術家を召しかかえたのは、まず必要性があってのことでした。壁や天井をフレスコ画なしにしておくなんて貧乏たらしいことはできませんでしたし、肖像画、宗教画も欠かせません。また建築家としても、あるいはパーティーなどイベントの演出も、こなしていました。レオナルド・ダ・ヴィンチだって、そういうことまでやっていたのです。
そういうなかでも、必要性以上に、芸術家たちを積極的に重用して愉しんでいた君主領主がいました。ボッティチェリがいたメディチ家ロレンツォ・イル・マニフィコ(フィレンツェ)、ブラマンテ、レオナルド・ダ・ヴィンチがいたスフォルツァ家イル・モーロ(ミラノ)、マンテーニャがいたゴンザーガ家イザベッラ(マントヴァ)・・そして、ピエーロ・デッラ・フランチェスカがいたウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロもそのひとりです。
右が、フィレンツェ・ウフィツィ美術館にあるウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの肖像です(ピエーロ・デッラ・フランチェスカ作)。ダ・モンテフェルトロ家は、現在のサン・マリーノのそばにあるウルビーノの統治者でした。1444〜1482年、40年間ちかくつづいたこの男の治世のときにもっとも隆盛をきわめています。1472年のヴォルテッラ蜂起(染色につかう明礬鉱脈をめぐっての利権争い)には、傭兵隊長としてフィレンツェ・メディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコ政権安定のために大きく寄与しました。
傭兵隊長フェデリーコの宮殿には、ブラマンテ、パオロ・ウチェッロ、レオン・バッティスタ・アルベルティ、ピエーロ・デッラ・フランチェスカ、フランドル派画家たちでにぎわっていました。ラファエッロの父親ジョヴァンニ・サンティもまたフェデリーコの宮廷画家であり文人でしたので(ラファエッロ11才のときに逝去)、ラファエッロはここウルビーノで生まれています。
『芸術の庇護者』というと、どうせ『生まれつきのお坊ちゃん 』などとおもうかもしれませんが・・フェデリーコは庶子(正妻以外の子)としてグッビオで生まれました。彼が11才のとき、父親が二度目の結婚をし、これを機に、フェデリーコははじめて父親の本拠地ウルビーノに来ることを許されました。正式に、ダ・モンテフェルトロ家の跡継ぎのひとりとして認知されたわけです。
ほっとする間もなく、すぐフェデリーコは『人質』としてヴェネツィアにまわされます。15ヶ月間を過ごしたこの都に、11才のフェデリーコはすごく大きな感銘を受けました。そのあとマントヴァのゴンザーガ家で2年間を過ごし、戦闘教育などもここで受けています。
14才のとき故郷に戻ると、時を置かず、15才のときにはもうすでに傭兵隊長としての重責を負っていました。21才のときに父親を亡くし、嫡子(正妻の子)がいったんはダ・モンテフェルトロ家を継いだのですが、その1年後、フェデリーコは貴族・民衆の支持をとりつけ、嫡子にかわってダ・モンテフェルトロ家当主かつウルビーノ公となりました。
フェデリーコは、15才のときに一度政略結婚をさせられています。その後、バッティスタ・スフォルツァ(Battista Sforza)を見初め、彼女が14才のときに結婚しました(1460年)。
上の彫像がバッティスタ・スフォルツァです。またウフィツィ美術館には、真左を向いたフェデリーコ像とちょうど向き合うように、真右を向いたバッティスタ・スフォルツァの肖像があります(ピエーロ・デッラ・フランチェスカ作/1465年ごろ)。
ピエーロ・デッラ・フランチェスカ肖像画
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/p/pier..
バッティスタ・スフォルツァは、26才のときに最後のこどもグイドバルド(Guidobaldo)を生むと、産褥のさなかに死んでしまいます(こどもはぜんぶで7人か9人!)。それからすぐにフェデリーコがピエーロ・デッラ・フランチェスカに描かせた絵(下右画像およびリンク先:ミラノ・ブレーラ美術館)には、まさに妻のおもかげをたどるかのように、生まれてきた赤ん坊と正装の武人フェデリーコ、妻バッティスタ・スフォルツァの姿がえがかれています。
ピエーロ・デッラ・フランチェスカ祭壇画
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/p/pie..
かつてのダ・モンテフェルトロ公宮殿にはいま『マルケ国立美術館』があります。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロとバッティスタ・スフォルツァが芸術作品に熱い眼差しを注いでいた当時の面影が、じっさいに今どのくらい作品として残っているのでしょう・・?
ところで、ウルビーノはそもそも経済的発展がもとで発展した町ではありません。イタリア半島を北から南へ抜ける要衝の地であり(当時はいまのように直線的な行き方ではありませんでした)、マルケ地方(リミニ)とエミリア地方(ボローニャ)の政治的緩衝地帯でもあり、つねに教皇の利害と裏合わせの土地でした。
そのために、そこに教皇に忠実で頼りになる傭兵隊長がいてくれるとたすかる、というのがウルビーノを中世のちっぽけな町から公国へと繁栄させたほんとうの理由です。フェデリーコは、ミラノ、フィレンツェ、ナポリとも良好な関係を築き、いっぽうで民衆の支持もとりつけていたので領内の治安も良く、立派な図書館も建てられるなどして、いろいろな地方から学生がウルビーノをおとずれて学んでいます。
フェデリーコが死ぬと、1494ー95年にはフランス・シャルル8世のイタリア遠征がありました。軍隊はもちろんウルビーノを通り抜けています。さらに1500年代初頭、ボルジア家の謀略にかかって、ダ・モンテフェルトロ家当主グイドバルド(フェデリーコとバッティスタ・スフォルツァのあいだに生まれた唯一の後継男子)がウルビーノから追い出されたり・・。
『マルケ国立美術館』には、ピエーロ・デッラ・フランチェスカ、ラファエッロ・サンツィオ、パオロ・ウチェッロらの作品が残されています。ダ・モンテフェルトロ公宮殿を飾っていた当時の作品が、注目に値するほどウルビーノに残っているわけではありません。しかし、ウルビーノが駆け抜けてきた歴史を顧みると、こうした作品がずっとこの地を出ていない、ということのほうがむしろ驚きです。
(2001.07.30.)(2002.09.05. 見直し)(2005.01.05. 見回り)
※ ファイル中の画像: (1) 『フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ肖像』ピエーロ・デッラ・フランチェスカ作 1465-70年 ウフィツィ美術館(フィレンツェ) (2) モンテフェルトロ公宮殿 (3) 『バッティスタ・スフォルツァ彫像』バルジェッロ国立美術館(フィレンツェ)ラフランチェスコ・ウラーナ作(LAURANA, Francesco 1430-1502):デス・マスクから制作 (4) ピエーロ・デッラ・フランチェスカ作 1472-74年 ブレーラ美術館(ミラノ)
■ ルネサンス時代の常識・非常識
■ メディチ家の人々
■ 「戦争と平和」のルネサンス
■ ウルビーノのかんたんマップ
ダ・モンテフェルトロ宮殿(写真が豊富:イタ語)
http://www.moveaboutitaly.com/marche/urbino..
(Move About Italy) 宮殿訪問の際には、厩(うまや)と台所を見のがさないように、だそうです。
ウルビーノへの接続
バスが現実的。アドリア海に面した町ペーザロからは、35、53 km(車で39分)。ウルビーノ〜フィレンツェ、184、12 km(車で3時間) ・・・・・最近気づいたのですが、、アレッツォあたりからバスがでてそうな気がする。そのうちやってみます。