アメデオ・モディリアーニ
Amedeo Modigliani 1884-1920
2000年〜2001年にかけて、世界で取り引きされた絵画のうち、売り上げ総額がもっとも多かったのはピカソ。それに次いでモネ、マティス、セザンヌ、ルノワール、アンディ・ウォーホル、レンブラント、モディリアーニ、エゴン・シーレ、マックス・ベックマンの順だ。モディリアーニはトップテンに入っている。もっとも、レオナルド・ダ・ヴィンチのように、一点だけだが高額、というのもある。(Art Sales Index による)
アンリ・マティス(1869-1954)とアメデオ・モディリアーニの作品は、どこか似たところがある。色彩・構成の単純化による躍動感と広がり。現代人に人気があるという点でもいっしょだ。
モディリアーニの作品は、アフリカ彫刻を連想させる、まよいのない線、スッキリとしたフォーム。モディリアーニ自身、彫刻に没頭していた時期があった。そういうモディリアーニの作品は、なにかぜんぜん別のジャンルのアート、たとえばルーチョ・フォンタナや現代のインスタレーションのような未来の形に発展していく可能性を予感させる。それにくらべて、マティスの作品はきわめて絵画的な絵画だ。
最期の時期のモディリアーニをつたえる自画像 / 1919 Museo de Arte Contemporanea de Universidade San Paolo(ブラジル)
モディリアーニ作品
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/modi..
マティス作品
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/matis..
イタリア人モディリアーニの作品ほうがフランス的で(もっともモディリアーニの母親はフランス人だ。)、フランス人マティスの作品には、イタリア絵画の伝統がほうぼうに顔をみせているようにおもわれる。
1910年代のパリには、あまり先の見通しがたたないアーティストたちがうじゃうじゃといた。話はせずともおたがいの存在が身近に感じられた。パリは、「あったかい」とまでは言わないが、とにかくアーティストにとって生き永らえることのできる場所だった。そういう鬱屈とした時代の影が、モディリアーニ作品からはひしひしとつたわってくる。その一方で、モディリアーニ作品には「手放しの至福」のようなものも潜んでいる。
もともと「陽」なんだけれども、「淋しげな風情」をまとっている、そういうことなんだろうか。それにくらべると、マティスは「陽」だ。でも、もともとの「陽」ではないかもしれない。もともと「陽」だと、精神が不安定になったときが大変だ。モディリアーニがそれで、1920年に36才でじぶんから逝ってしまった。
酒、麻薬びたりだったという。それが原因で、失意に輪がかかったということはかんがえられる。待っていたかのように、そういうところを、画商に尻を叩かれる。300点にのぼる作品(ほとんどが肖像画)をダダッーと描きあげたのが、1915年ぐらいからのこと。1920年まで、単純に計算すると一年間に平均60点。
年60点というのは、一般に画家が目標とする数字だからべつにおどろくにあたらない。しかしこれは、相対的に健康な状態で、優等生的に仕事をしたとしての話。精神状態が不安定では不可能だし、ぎゃくに不安定な精神状態がそれを可能にしたのだとしたら、これは自殺行為だ。ほんとうに描きたいものを描いていたのならまだしも、そうでなかったとしたら..、落ち込んだときが怖い。
モディリアーニは、イタリア・トスカーナ地方の港町リヴォルノに生まれた。ファットーリ(1825-1908:リヴォルノ出身)をはじめとする、「マッキア派」(印象派に近い画風)の伝統をもつフィレンツェでまず教育を受ける。そののちヴェネツィアで学んだあと、1905年、パリに赴く。モディリアーニ、21才。
最終的にパリに居を定めたのが、ピカソ、シャガール、マティス、ユトリロ..、がパリにいたころの1909年。それから11年間ぐらいが、アーティスト・モディリアーニの活動期となる。
□ モディがいたのは1910年代のパリ
■ モディリアーニの彫刻発見!
■ モディリアーニのパリのおともだちスーティン
■ モディリアーニの先生ファットーリ
■ アブストラクトからでてきたリアリズム
■ リヴォルノのかんたんマップ
Archives legales Amedeo Modigliani(英語)
http://www.modigliani-amedeo.com/
(2001.10.09. 加筆)