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ロセッティのオヤジと吉田松陰

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
Dante Gabriel Rossetti 1828-1882

Dante Gabriel Rossettiフランスの革命(1789年)は、諸外国の勢力が入りくんでしばりつけていたイタリアにあらたな希望と恐怖、さまざまな政治結社の誕生と弾圧をもたらす。

ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte 1769-1821)がいったんは半島を席巻。ナポレオンが葬り去られると、イタリアは「リソルジメント(Il Risorgimento Italiano)」と呼ばれる「イタリアの栄光復活」のためのうねりをじょじょに大きくしていく。こうしたうねりのひとつひとつが集まって、1861年のイタリア国家統一が実現する。

「炭焼き党(Carboneria)」というのも、そうしたうねりのひじょうに重要なもののひとつだった。1820年のナポリ蜂起は国王フェルディナンドから譲歩を引き出すが、政治的なかけひきにしくじった炭焼き党員は政治犯として追われ抹殺される。このナポリ蜂起での英雄たちのなかに、詩人シルヴィオ・ペッリコ(Silvio Pellico 1789-1854)と詩人ガブリエレ・ロセッティ(Gabriele Rossetti 1783-1854)がいる。

シルヴィオ・ペッリコは干渉してきたオーストリア政府に捕われ、1830年までの10年間をとんでもない牢獄で暮らすことになる。ペッリコはそこで有名な「獄中記(Le Mie Prigioni)」を書いた。解放されてからは政治から遠ざかった。

一方のガブリエレ・ロセッティは、イギリス海軍士官の軍服に身をかため、ナポリ湾に停泊中のイギリス軍艦に間一髪で逃げ込んだ。炭焼き党とイギリス・フリーメイソンがつながっていたという事実はたしかにあったが、この脱出行を実際に可能にしたのは、あるサロンで詩を朗読したガブリエレ・ロセッティにいたく感激したイギリス海軍提督夫人だった。ガブリエレ・ロセッティはそののち3年間をマルタ島で過ごす。そしてそこも危うくなると、1824年ロンドンに政治亡命した。

1826年、当時ロンドンのイタリア人社会で中心的な存在だったポリドーリ(イタリア語教授。ポリドーリという名前はギリシャ系。)の娘と結婚。ガブリエレ・ロセッティの二番目のこども、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが2年後の1828年に生まれた。

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティはイギリスを代表する画家のひとり。バーン=ジョーンズ(Edward Coley Burne-Jones 1833-98)、ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt 1827-1910)、ジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett Millais 1829-96)らとともにラファエル前派として知られる。(ラファエル前派というのは、ラファエッロを理想とするアカデミックな画風にたいして、絵画の精髄をラファエッロ以前に求めたひとたち。)

ロセッティ作品
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/rossetti/

Dante Gabriel Rossettiガブリエレ・ロセッティはイタリア語教授として生計をたてる一方、ダンテ(Dante Alighieri 1265-1321)の著明な研究家でもあった。皇帝派と教皇派の政治的対立のなかでダンテが残した言葉のなかに、1800年代のイタリアにも共通する暗示を見い出すことに革命家ロセッティは夢中になる。

ロセッティ家の夕食では、そんなことがごく自然に話題になっていただろう。ベアトリーチェをはじめ、ダンテ作品にでてくるさまざまな女性を通してダンテが謂わんとしていたことをミルクがわりにして息子ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは育った。

ところで、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティはイギリス生まれなので英語読みでダンテ・ゲイブリエルだが、家ではイタリア語で「ガブリエレ(もしかするとダンテガブリエレ)」と呼ばれていただろう。ダンテ・ゲイブリエルのおかあさんはパリに出掛けて行く息子を見送って、「はやく帰っておいで。パスタを作って待っているから。(←イタリアのおかあさんの殺し文句)」と言ったにちがいない。

ロセッティ家の門戸は亡命イタリア人たちにいつも開かれていた。ガブリエレ・ロセッティ(オヤジのほう)は、いつの日にか政治的意志を実現させたかたちで祖国イタリアに戻れる日を待ち望んでいたのだろう。

さて、1854年1月31日詩人シルヴィオ・ペッリコがトリーノで死ぬ。それから3ヶ月後の4月26日、ガブリエレ・ロセッティも死んだ。ガブリエレ・ロセッティが死ぬちょうど一ヶ月前の3月27日夜、下田沖に停泊しているペリー艦隊に向かって慣れないオールで一生懸命に小舟を漕いでいるふたりの若者の姿があった。ふふ、そのうちのひとりが24歳の吉田松陰だ。

それから7年後の1861年にはイタリアの国家統一、10年後の1864年にはカプレーラ島のそばを船で通りすぎた池田筑後守遣欧使節が島に蟄居していたガリバルディ(Giuseppe Garibaldi 1807-82)におもいをはせている。14年後の1868年には明治維新。

吉田松陰の密航とガブリエレ・ロセッティの脱出行。このふたつの史実のあいだには34年という時間のひらきがある。それにもかかわらず、どこかで似ていなくもない時代状況。そしておなじように外国船をめがけたシーン。吉田松陰の密航とロセッティの死のなにやらふしぎな時間的一致。なぜかこのふたりの姿が重なる。とすると・・吉田松陰はもしかしてロマンチスト?!

(2002.04.23.)(2002.07.07. 補足)

※ ファイル中の画像:いずれもダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ作 (上)「ベアトリーチェの死(The Death of Beatrice)」部分 1871年 油彩/211x318 ウォーカー・アート・ギャラリー(リヴァプール) (下)「プロセルピナ(Proserpine)」部分 1874年 油彩/126x61 テイト・ギャラリー(ロンドン)

かんれんサイト

■ かたつむり行進曲(和歌俳句鑑賞と歴史人物紹介サイト):吉田松陰についてのファイル
■ シルヴィオ・ペッリコの「獄中記(Le Mie Prigioni)」(イタ語)

かんれんファイル

■ ジョン・エヴァレット・ミレイ
■ ラファエッロ・サンツィオ
■ サンドロ・ボッティチェッリ (ラファエル前派が注目したことによって、長い忘却から甦ったルネサンスの巨匠。)
■ イザベッラ・コレクションのマンテーニャ作品
■ マンテーニャ  (ラファエル前派はマンテーニャ、ボッティチェッリらにも注目しています。どちらもギリシャ神話などに題材を求めていますね。ラファエル前派の画家たちはイタリアにも行っているのですが、すでにイギリスにあったイザベッラ・コレクションのマンテーニャ作品はよく知っていたとおもわれます。)
■ スパゲッティ・アッラ・カルボナーラ  (『カルボナーロ(炭焼き党員)carbonaro』『カルボネリア(炭焼き党)carboneia』『カルボナイオ(炭焼き人夫)carbonaio』・・言葉はすべて『炭焼き』カンケイで、語源は『カルボーネ(炭)carbone』。)
■ ジョヴァンニ・ファットーリ(Giovanni Fattori 1825-1908) (イタリア独立戦争をたくさん描いてます。)
■ ナポレオン・ボナパルト

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