Sandro Botticelli(Alessandro Filipepi) 1445-1510 Firenze
メディチ家の栄華を築きあげたのがコジモ・イル・ヴェッキオ(1389-1464)。その孫で文化の庇護者ロレンツォ・イル・マニフィコ(1449-92)のまわりには、たくさんの知識人・芸術家があつまっていました。ボッティチェリは、そのなかでもロレンツォ・イル・マニフィコに目をかけられていたひとりです。
ラテン語にたけ、ダンテの詩を暗唱し、キサクでおしゃべり屋さん。ボッティチェリとロレンツォは年もほとんどおなじでした。知的好奇心に溢れるロレンツォ・イル・マニフィコにとって、ボッティチェリは愉快な取り巻きにひとりだったのでしょう。奇抜なパーティーを開けば、そこにはかならずボッティチェリの姿がみられたのです。
"La Primavera" Photo courtesy of Michael Reed
サンドロ・ボッティチェリ作品
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/b/botticel/
いとこのピエールフランチェスコ(祖父コジモの弟ロレンツォの孫)の婚礼祝いに、イル・マニフィコはボッティチェリの『プリマヴェーラ(=春:右上)』を贈ります。(1482年)ずいぶんと豪華なプレゼント!ボッティチェリは、当時の文化人たちが考えていた人生の理想、教訓、祝福を作品に表現しました。もちろんその頃の常識であった『神話』という形を通してです。
イル・マニフィコから『プリマヴェーラ』をプレゼントをされて気に入ったいとこのピエールフランチェスコは、ボッティチェリに『ヴィーナス(左下画像は部分)』を依託します。これらが、現在ウフィツィにある有名な2作品です。
ところが『ヴィーナス』はあろうことか、ボッティチェリのほかの2作品とともに、フィレンツェからほど遠からぬピエールフランチェスコの別荘に、1500年代中頃まで人知れず眠っていたのです。ウフィッツィ美術館に収蔵されたのが1815年。そののちボッティチェリ再評価のキッカケになったのは19世紀半ばのラファエル前派でした。
"La Venere" Photo courtesy of Weilai
ボッティチェリの作品というと、すぐにおもいだすのは『プリマヴェーラ』や『ヴィーナス』みたいな作品ですね。しかしボッティチェッリにしても、いちばん注文が多かったのは宗教画です。当時、それ以外のテーマは、神話も含めてやはりマイナーでした。
ボッティチェリがこういうものを描いたのは、なによりもイル・マニフィコのサロンの影響です。メディチ家というのは、フィレンツェでは新興勢力でした。そのために古い慣習にとらわれない、進取の気風があった。メディチのひとたちはことさらギリシャ文化に目を向けていました。まさに『ルネサンス』を興した原動力のようなものを、ここにも見ることができます。
いっぽうで、メディチ家のはぶりの良さに嫉妬を抱いていたひとたちが、こういう楽しそうな雰囲気を『風紀の乱れ』ととらえたとしてもフシギではありません。とくにメディチ家の栄華というのは『金貸し』にはじまっています。『利子』をとることにさえ同意していなかったキリスト教文化のなかにあっては、微妙な立場と言わざるをえません。
時代もすこしすこし変わってきていました。ヨーロッパ諸国家の影響を、イタリアは侵略という具体的な形で受けはじめたのです。もう隣の町(当時は都市国家)同士で戦争をやってばかりはいられなくなったのです。フィレンツェ市民もそこらあたりを敏感に感じとっていました。それがメディチ家に対する不満となって現れてきます。
1492年、ロレンツォ・イル・マニフィコが43才で死ぬと(ボッティチェリは47才)、でてきました・・すさまじいカリスマをもった天才宗教家サヴォナローラ(1451-98)です。
1494年、ボッティチェリはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で行われたサヴォナローラの説教を聴いています。大群衆のなかには画家ペルジーノ(ボッティチェリのよき友で、ラファエロの師匠。)、ルネサンスの大詩人ポリツィアーノの姿もみられました。みな、ロレンツォ・イル・マニフィコの取り巻きでした。
「いままでの浮かれた風潮をたたき直して、清く正しく慎ましく生きましょう!」サヴォナローラはひとびとを折伏してフィレンツェの指導者になりました。メディチ家はとりあえず失脚します(1495年)。(またあとで復権してくんのよ。)
でもサヴォナローラはちょっとやり過ぎた。メディチ時代の芸術を『虚飾の象徴』として焼き払ったりもしています。『焚書坑儒』ですね。ルネサンス芸術の3分の1が焼き払われたと言われています。サヴォナローラに共鳴していたボッティチェリも、裸婦像のデッサンや下絵などをたくさん処分したはず。しだいに人々はサヴォナローラのあまりの厳格さについていけなくなります。
1498年5月、サヴォナローラはとうとう焚刑に処せられました。ボッティチェリはそののち、ほとんど絵は描かず、貧困のなか、誰にもふり返られることなくこの世を去りました。享年65才。う〜ん、、だけど・・・ボッティチェリの晩年が失意の日々だったかどうか、、それは、本人にしかわかりません。。
※ ファイル中の画像: (上)「プリマヴェーラ」 1481年頃(修復1982年) 203 x 314 cm テンペラ・木板 (下)「ヴィーナスの誕生」 1485年ごろ(修復1987年) テンペラ・キャンバス 172.5 x 278.5 cm
□ ボッティチェリ 最良の日々と失意の日々
■ 推測・・ボッティチェリの性格
■ くらべてみるリッピとボッテイチェッリ
■ フィレンツェ・メディチ家の人々
■ ラファエル前派 → ロセッティ/ロセッティのオヤジと吉田松陰
■ サヴォナローラ(画像):フラ・バルトロメオ作/1497年ごろ(フィレンツェ サン・マルコ美術館)
丸紅アートギャラリーの「美しきシモネッタ」
http://www.marubeni.co.jp/gallery/index.html
(2003.08.08. 点検)(2005.02.19. 画像入れ替え)