Sandro Botticelli(Alessandro Filipepi) 1445-1510 Firenze
「自然を観察するといろいろなことがわかってくるよ。サンドロ。」と、おなじヴェロキオ工房にいたレオナルド・ダ・ヴィンチが言うと、ボッティチェリはスポンジを壁に投げ付けて、そこについたシミを指さした。
「ほら、これがオレの風景さ。いろんなものが見えるじゃないか!」たしかに天才肌のボッティチェリにとって、レオナルドはちょっとイモだったのかなぁ。だけど、ボッティチェリをライバル視していたレオナルド・ダ・ヴィンチのほうがあとで伸びたゼ〜。
ボッティチェリ自画像(「東方三博士の礼拝」部分)1478-80年頃 ウフィッツィ美術館
ボッティチェリは、インスピレーションが湧くと想像力をたくましくしてサラッと描いてしまう天才タイプかな、、?もちろん、それができるだけの腕も頭のヨサもあった。ロレンツォ・イル・マニフィコに可愛がられたボッティチェリ・・・
愉快爽快なメディチ家宮廷、呼ばれもしない席にちゃっかりと姿を現わすボッティチェリのあつかましさと陽気さ、コジモ・イル・ヴェッキオが創設した「プラトン研究所」での知識人らとの交流・・・すべてボッティチェリのインスピレーションの源だったにちがいない。
しかし、システィーナ礼拝堂の仕事(1481-83年:ボッティチェリ36才のとき)はあんまり冴えてなかったんじゃ〜ん、、父親の死去とかで、途中でフィレンツェに帰っちゃうしさ、、(それ以降ボッティチェリはトスカーナ地方から一歩も出ていない)、、
もしかして内弁慶だった???
ロレンツォ・イル・マニフィコが1492年に逝去すると、宗教政治家サボナローラが表舞台に登場する。
サボナローラはたしかに天才的だったかもしれないけれど、どうじに強引な指導者でもあった。だからひとびとのリアクションも激しいものとなり、サボナローラのさいごは焚刑。
サボナローラがフィレンツェに君臨したのは1495〜98年の4年間にすぎない。ただ、サボナローラはロレンツォの生前から、説教を通してひとびとに影響をあたえていた。そのなかには芸術家も多くいた。
ボッティチェリがなぜサボナローラに感化されたのか、そこらへんはよくわかんない。しかし才気煥発なニンゲンが、しかもその才気をはばかるところなく発散できるメディチ家宮廷という場所にも恵まれながら、それでもサボナローラの言うことに耳を傾けたというのは、、むしろサボナローラの言説にそれだけ説得力があったということだろう。
ところで、ロレンツォ亡きあとのボッティチェリ作品はどういうふうにかわっていくのだろう、、?!ボッティチェリは1510年に死んでいるが、1500年以降の作品というのはほとんど伝わっていない。
つぎの画像はウフィッツィ美術館にある「誣告」という作品の部分で、サボナローラ処刑(1498年)のころに描かれたとされる。うぅ〜ん、、、どっか説明くさいか、、、
1490年以降のボッティチェリ作品(Web Gallery of Art)
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/b/botti..
Photo courtesy of Artemotore(2004年フィレンツェのボッティシェリ展より)
しかし、、1495年ごろの作品をみていると(ちょうどサボナローラが政権をとったころ)、たしかにロレンツォ時代のような「あでやかさ」はないが(サボナローラに感化されたんだったね)、じつに力がある作品を描いている。
とくにミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館にある「死せるキリストを嘆き悲しむひとびと」なんかはスゴイ。。(ポルディ・ペッツオーリ: Gian Giacomo Poldi Pezzoli, 1822-79)が死の直前に買った作品だったというのも興味深い。)このころの作品は、ボッティチェリ芸術のあらたな展開としてがぜん評価したい。
1504年ごろに描かれた「聖ゼノビウス」シリ−ズはボッティチェリさいごの作品とされ、ロンドン(ナショナル・ギャラリー)、ニューヨーク(メトロポリタン)、ドレスデン(国立絵画館)にある。でも、ボッティチェリらしくない精彩を欠く作品として、評判はすこぶるわるい。
もっともこのころのボッティチェリは、画家組合の会費も払えないほど窮乏していたうえに、精神的にずたずたになっていただろうから、もうどうでもよかった、、のかもしれない。
(2002.08.08. 見直し)(2004.11.12. 見回り)(2005.02.21. 加筆)
■ ボッティチェリの最良の日々と失意の日々
■ フィレンツェ・メディチ家の人々
■ ボッティチェッリの『受胎告知』