Michelangelo Buonarroti
1475 Caprese (Arezzo) - 1564 Roma
おぎゃ〜 〜 〜
ドメニコ・ギルランダイオに弟子入り!
(Domenico Ghirlandaio:1449-94)
ミケランジェロは、すでにかなりできるヤツだった。
メディチ家のイル・マニフィコに気に入られて・・
サン・マルコ修道院の庭で牧神ファウヌス像を作っていた少年をロレンツォ・イル・マニフィコが見掛けた。「老人だろ?そんなに歯がそろってるわけないとおもうけど。」少年の才能を見抜いたロレンツォがとばしたジョークに、歯抜けファウヌスを作ってすばやく答えたミケランジェロを、ロレンツォはメディチ家に住まわせ、息子たちと一緒に教育することにした。のちの教皇レオ10世(ロレンツォの次男)、クレメンス7世(ロレンツォの甥)は、だから幼なじみ。
マザッチョの模写なんかもしていたよ
ブランカッチ礼拝堂で。みんなやっていたんだろうけど、マザッチョはミケランジェロにとってもお手本だったんだね。(現在ここにあります→ Graphische Sammlungen , Munchen/Albertina , Wien)
数々の作品
『ピエタ』・・・ヴァチカン、サン・ピエトロ寺院バジリカ。
『ダヴィデ』・・・もともとは、ほかの彫刻家の手に負えず36年間放置されていた巨大大理石だった!(1504年に完成すると政庁前広場に設置→今ほんものはフィレンツェ・アッカデミア美術館。)
『ユリウス2世の墓計画』のための『4人の奴隷』は、フィレンツェ・アッカデミア美術館。『モーゼ』(サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会)
Photo courtesy of Michael Reed
ボスフォラス海峡にかける橋
を作ってくれと、オスマン=トルコのスルタンに頼まれた。行ってたら人生変わってたよなー。
システィーナ礼拝堂ヅメ
チャールトン・ヘストン演じるアメリカ映画『ミケランジェロ』は参考にはなるけど、ベンハーがそのままミケランジェロになったみたいで〜、、そもそもミケランジェロは中肉中背で、じぶんの容姿にすごいコンプレックスをもってたんだってさ〜
藤沢道郎著「物語 イタリアの歴史」によると・・・ミケランジェロはこのとき、ユリウス2世霊廟にすでに着手していた。ところが、あまりに壮大なミケランジェロの計画に、サン・ピエトロ寺院建築を請け負っていたブラマンテがあわてる。資金をそっちにもっていかれちゃこまるとおもったらしい。で、ブラマンテ、「システィーナでもやらせとけば〜」と教皇に勧めた。な〜るほど、、ミケランジェロがラファエロ(ブラマンテの子分)のことをよくおもわなかったのも、坊主憎けりゃ袈裟までもか、、、
→ 華麗なる激情(映画)
→ おすすめミケランジェロかんれん本
セバスティアーノ・デル・ピオンボ
デル・ピオンボとこの頃から仕事の協力関係あり。セバスティアーノは、ふとった女性が大好き。ティツィアーノ、ジョルジョーネとも一緒に仕事をしたことがあります。色のセバスティアーノ、デッサンのミケランジェロ・・どうだまいったか、ラファエッロ。
20才のポントルモをベタ誉め
ボローニャ女性を召使いに雇う
・・?5年前にボローニャ女性に惚れたんだったよね・・完全な " 左きき " というわけではなかったのね。
レオナルド・ブオナローティが生まれました。
のちにミケランジェロが寵愛し、あとを託した(相続したってこと)甥っ子です。レオナルド・ブオナローティは『ミケランジェロ.ブオナローティ・イル・ジョーヴァネ(Michelangelo Buonarroti il Giovane)←若きミケランジェロ』とも称されています(通称)。
レオナルドの息子が同じく『ミケランジェロ.ブオナローティ・イル・ジョーヴァネ』だったみたいで、このひとはミケランジェロに関する蒐集(情報集め)にことに情熱をもっていました。現在の『カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ)』所蔵品の元です。
そのなかには・・ミケランジェロが作った詩、父親や甥っ子レオナルドに宛てた手紙などもあります。チーズを6っ個、レオナルドが送ってくれたときにミケランジェロが書いたお礼の手紙・・
「チーズありがとう・・すごくおいしかったよー。無事息災のようでなによりです。ずっと返事できなくてごめんな。」
あっちゃこっちゃで不動産投資
をしているようですね、ミケランジェロおじさん。「お金がナイナイ。。」と生涯こぼしていたのかとおもったら、「お金をきちんと払ってクレナイクレナイ。。(←シビアな事業家)」のまちがいだったみたいです。
レオナルド・ダ・ヴィンチ逝去
→ フィレンツェ大議事堂の壁画制作を依頼されたダ・ヴィンチとミケランジェロ
フランス病
(↑なんのことか分かるよね・・)にかかった。どーしよう。
ロッソ・フィオレンティーノ
からミケランジェロ崇拝の熱い手紙をもらいました。
弟のブオナロート
がペストで死ぬ。
システィーナ礼拝堂の『最後の審判』
を、クレメンス7世(在位1523-34年)がミケランジェロに依頼します。クレメンス7世は、1478年にフィレンツェの大聖堂でパッツィ家一味に刺殺されたジュリアーノ(ロレンツォ・イル・マニフィコの弟)の息子。そのあとすぐにクレメンス7世は亡くなり、教皇パウルス3世が遺志を引き継ぎました。
セバスティアーノ・デル・ピオンボと喧嘩
ミケランジェロいわく、「油彩なんて女の仕事だ!(←オレはフレスコしかやらん!)」
ヴァザーリ(1511-74)
がちょこちょこ顔を出しはじめます。ヴァザーリは、ミケランジェロを崇拝していました。
ティツィアーノとローマで喧嘩
スフォニスバ・アングイッソラと知り合う
デッサンをプレゼントしました。このデッサンをもとにスフォニスバが描いた『ピエタ(慈悲)』は、いまミラノのブレーラ美術館にあります。
ミケランジェロ逝去
アルテミジア・ジェンティレスキ
は、ローマでのレイプ騒ぎのあとフィレンツェの『カーサ・ブオナローティ』で世話になりました(1613年〜)。ミケランジェロの甥レオナルドの息子(1568-1647)が面倒をみたのでしょう。
ミケランジェロは、ずいぶんといろいろな女性をアシスタントに雇っていたのだなあ・・。フィレンツェのドゥオーモ円蓋(クーポラ)を作ったブルネレスキは尊敬していたけど、ブラマンテは嫌いだったって。じぶんと性格が似ていたから、らしい・・。
ミケランジェロ作品(Web Gallery of Art)
http://www.wga.hu/frames-e.html?/../mich...
※ このファイル中の年代などは、おもに『ミケランジェロ年譜(イタリア語)↓』を参照しました。作品制作の詳しい経緯などについても説明があります。
http://www.cronologia.it/cronomic.htm
※ ファイル中の画像(下): 未完のピエタ(慈悲)/1552-64年/Castello Sforzesco, Milano
(2003.01.12.)