Cimabue 1272-1302 (確認されている年代)
かつてヨーロッパには気候の大変動を受けた時期があり、寒くて農作物がおもうようにとれず、食いっぱぐれた民族が大移動を繰り返していた。西暦395年、ローマ帝国は東と西に二分する。
異民族侵入のあおりをもろに受けた西ローマ帝国(〜476年)ははやばやと滅び、今のイスタンブールに首都を定めた東ローマ帝国(330〜1453年)は1453年まで、ゆっくりと「ビザンチン文明」を熟成させていく。
東ローマ帝国は、イスタンブール(ビザンティウム)というローマよりもはるか東寄りの土地に位置していたから、地勢的に東方文明の影響も受けている。しかし東ローマ帝国はあくまでヨーロッパなのであって、イスタンブールに首都があったからといって、たとえばトルコ、ではない。東ローマ帝国の歴史には、ペルシャ人、アラブ人、トルコ人、南下してきたスラブ人との対立もある。ギリシャ正教も生まれた。
したがってビザンチン文明は、ローマ文明、キリスト教文明、古代ギリシャ文明などがきわめて自然にまざり合ったじつに国際色豊かなものだったはずだ。インターナショナルだったという意味では現代のアメリカのようなものかもしれない。
ローマ帝国分裂からルネサンスがはじまるごろまでのイタリア半島の歴史には、目に見えないさまざまな糸が織りなされていて、文化的にもけっして一筋縄ではない。しかしいろいろあっても、ビザンチン文明は、当時イタリア半島に住んでいたアーティストたちにとって偉大な世界にはちがいなかった。
チマブーエやジョットが目にしていた美術は、ともすると現代人の眼にそう映るかもしれないような「ルネサンス以前の美術」ではけっしてなかったし、チマブーエやジョットの時代、美術のマエストロにはたくさんのギリシャ人たちがいた。
いわゆる西欧絵画史というと、たいがいチマブーエあたりから説明がはじまるけれど、かれらルネサンスの創始者たちは、そういうアーティストたちにまじって、あたらしい時代の息吹きをじぶんたちなりに表現していく。
チマブーエ作品
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/c/cimabue/
※ ファイル中の画像(拡大画像つき): サンタ・クローチェ教会(フィレンツェ)
■ モザイクのラヴェンナ
■ コンスタンティヌス帝とビザンチン帝国
(2001.04.19.)(2002.08.16. 見直し)(2003.06.21. 点検)(2004.02.24. 画像追加)(2004.11.05. 見直し)