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アントネッロに捧げるボチェッリの歌

アントネッロ・ダ・メッシーナ
Antonello da Messina 1430?-1479 Messina

Messinaルネサンスに登場する役者の数はかぎり知れない。そのなかでもアントネッロ・ダ・メッシーナの生きざまは、それをそのまま現代にもってきてもスンナリとおさまる。

アントネッロは、1430年ごろシチリアのメッシーナで生まれた。はたちの頃、ナポリで絵画修行をしている。当時ナポリとシチリアは両シチリア王国といい、スペイン・アラゴン家下のおなじ国だった。ナポリは国際都市で、アラゴン家にはフランドルの画家たちが多く働いていた。テンペラが主流だった当時、フランドル派の画家たちはいちはやく油彩をつかっている。

アントネッロの心をつよく惹き付けたのも、より鮮明で、より現実的な描写をするフランドル派絵画だった。フランドル派の絵画技法を摂取し、より納得のいく作品を制作するために、アントネッロはほうぼうに出かけていく。

当時、フランドル派の油彩画法(より正確には油彩具製造法)はまだ企業秘密だった。それをどうやってアントネッロが習得したかについては、さまざまな説がある。「アントネッロはフランドル地方まで行った。」

行ったか行かなかったか、どちらに「賭ける」かと言われれば、「行った」というほうに賭ける。アントネッロがそうしないでいられたという理由はあまりない。ウルビーノ・モンテフェルトロ公の宮殿では、エイク(1390-1441)の工房を継いだクリストゥス(1410/15-73)に出会っている。となると「おともだち」もいるわけで、フランドル地方へも行っていたとかんがえるほうがますます自然だ。

長い年月にわたる旅は、アントネッロにとって目的を達するためのたんなる手段でしかなかった。そして納得のいく作品を仕上げることが、アントネッロにとって人生の最高課題だった。

Messina・・・・・ 船が港を出てからもうずいぶんと時間がたっている。あらかたの船客は、すでに景色を見るのにあきて船内でくつろいでいる。アントネッロは、手をハの字型にひらいて船べりをしっかりと掴み、いまでは遠くかなたに見えるイタリア本土をみつめていた。ぶあつい外套が風になびく。長い髪。彫りの深い顔。自信に満ちた男の存在感が、その背中に漂っている。

「慣れ親しんだ土地を去る淋しさは、送別の音楽みたいなものさ。ふっきれと、またあたらしい世界への挑戦。いつもその繰り返しだった。そうやってオレは生きてきた。それが、なにか今回はちがう。ひとつ、なにかが終わったような気がする..。」 ・・・・・

アントネッロ・ダ・メッシーナがヴェネツィアに滞在したのは、1474年〜1476年。ヴェネツィアの画家たちにおおくの影響を与えながら、予感したのか、あるいは病気の徴候があったのか、アントネッロは故郷のシチリア島メッシーナに戻っていった。それから3年もしないでアントネッロはこの世を去っている。

船や馬車は飛行機にかわったが、自信に溢れた若者たちのこういう姿はいつの時代でも見かける。甲板で、遠ざかるイタリア本土を眺めるアントネッロ・ダ・メッシーナ。アンドレア・ボチェッリの歌を聴いていて、なぜかこういうアントネッロの姿が思い浮かんだ。

※ ファイル中の画像:両方とも「天使に起こされる死せるキリスト」の部分/1475-78年/74 x 51cm/マドリッド・プラド美術館

アントネッロ・ダ・メッシーナかんれんファイル

■ フランドル派から学んだシチリアーノ
□ アントネッロに捧げるボチェッリの歌
■ ルーヴル美術館のダ・メッシーナ作品
■ ヴァザーリの美術史どこまでホント?

アントネッロ・ダ・メッシーナ作品(Web Gallery of Art)
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/a/antonell/

(2001.07.23.)

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