EKAKINOKI

メトロポリタン美術館展

ピカソとエコル・ド・パリ

メトロポリタン美術館展(Bunkamura -2003.3.9 )で印象に残った作品がいくつかありました。(リンクは展示会紹介サイト)

メトロポリタン美術館展

メトロポリタン美術館展の入場券

シャガールの『恋人たち』、これはブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』がらみですでにファイルにしました。

→ シャガールとブルガーコフ

モディリアーニの『ジャンヌ・エビュテルヌ(1919)』。そばに『横たわる裸婦(1917)』があったのですが、このふたつの作品の違いに目をみはってしまいました。1919年というと、モディリアーニが自殺をした前年の作品です。

『横たわる裸婦』のほうは陰影のつけ方がなんとなく見えてきてしまう、というか理解できてしまう。(ミケランジェロの亡霊みたいな・・)『ジャンヌ・エビュテルヌ』になると自由自在というか好き勝手というか、おもしろおかしくさえ陰影が使われているのです。それがそのままこの作品の存在感になっているような・・そんな勝手な想像をしていました。

ユトリロの夏景色もあったなー。『サンノワの風車(1912年)』

デ・キリコ(1888-1978)のわらっちゃうような自画像も、共感がもてました。よく見かける老キリコの自画像でないとこがいい。1911年作なのでデ・キリコ23才のときの作品ですね。

デ・キリコ作品
http://www.artchive.com/artchive/D/de_chirico.html
(The Artchive)

BBSより

Juneさん

「メトロポリタン美術館展」では、モディリアーニやデ・キリコに、やはりイタリア人画家だなぁ..と、妙に納得してしまいました。ド・シロートは その線や空間処理に イタリア絵画の歴史を観てしまいました(^^; ところで、サンパウロの 穏やかで やさしげな≪Renee≫も好きです♪

えかきのき

モディリアーニやデ・キリコに、Juneさんも『イタリア絵画』を感じるのですね。同感です。いっぽうで、長所はときとして限界にもなりうる、とはおもうけど。

TOMさん

私は関西なのでメトロポリタン展は昨年に行きました。おもしろい作品の洪水の中でも私にとって圧倒的だったのはバルテュス。特に『目を覚ましたテレーズ』は好きですねぇ。

以前にバルテュス夫人の節子さんに触れてらっしゃいましたね?喫茶店でなにげなく『家庭画報』の3月号をめくったら美しい近影がありましたよ。幾度かテレビなどでもお見かけしましたが、いつまでも凛としながらたおやかな麗人ですね。

えかきのき

ほんと洪水ですね。『エコル・ド・パリ展』はメトロポリタンのオハコのひとつみたいですけど、ならべただけって感じがすこししました。いい作品をいっぱい見せてくれるのはカンシャですが。京都の展示会場はかなりスペースがあったのかな?

御存知のようにBUNKAMURAはそんなにずどーんという空間ではないので、そこにピカソありブラックありでしょ。そこにばるちゅすのような作品が隣合わせでならんでいるわけですから・・ちょっと調子くるっちゃうっていうか・・。

TOMさん

まったくそのとおりです。こういう時、ポール・ヴァレリーの美術館における美学的神経と、その比喩としての経済学的過剰蓄積の論証(笑)。ナンダソレ。私はこれがいつも美術館で眩暈を覚えるときに頭にめぐるのでちょっとおもしろいのでほんの一部抜粋して書いておきます。

「・・ただ動いてやまぬ眼だけが、同じ瞬間に肖像画と海洋画、厨房の情景を描いたものと凱旋行進を描いたものを―――しかも、たがいにまったく相容れない画法によるものを―――把握す仕儀に至る。しかしながら、そうした絵は、それぞれが美しければ美しいほど、それだけお互いに異なってくる。すなわち、稀な対象、この世にそれ一つしかないもの(Unica)になる。おりあるごとにいわれるように、こうした絵はまわりにある絵を殺してしまうのだが、しかし、まわりにある絵のことを忘れたなら、遺産などというものは台無しになる。人間はあまりあるほど保持している技術的補助手段によって、みずからの能力を失っていくように、富を過剰にもつことによって、かえって貧しくなるのだ」

かんれんファイル

■ モディリアーニ
■ ベオグラード国立美術館展:ユトリロにふれているファイル

かんれんサイト

BUNKAMURA
http://www.bunkamura.co.jp/
読売新聞のイヴェント紹介
http://event.yomiuri.co.jp/

(2003.02.18.)

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