あるとき突然「あるがままの姿をえがく」という仕事を「写真」がみごとにこなしてしまった。「絵画」はどうしたらいいだろう?「あるがままの姿をえがく」という部分は「写真」に譲って、それ以外の部分で活路をひらくというのがひとつの解決策。じじつほとんどの絵画がその道をえらんだ。
しかしちょっと待って。「写真」というのは「絵画」に対峙するものなのだろうか・?「写真」も「絵画」も、そもそもは「目に見えるものをより正確に再現する」という人間の原始的な欲求からはじまっている。だとしたら「写真」は、絵画の市場を奪ってしまったなにか新しい魔物なのではなくて、絵画の「延長上」にあるか、絵画の「新しい表現様式」と考えることはできないだろうか・・。
もしそういうふうに考えるならば、ジョルジョーネやミケランジェロやカラヴァッジョが登場したのをはるかに越えるような、超天才的なアーティストが出現したというのとおなじことになる。そういうことなら、いままでになんべんも絵画の歴史は試されている。こんどもまた、「写真」というこの超新しい表現様式を乗り越えていけばいい。
写真をたたきのめして絵画がのさばろうというのではない。そんなことを企てても意味がない。なぜなら、写真と絵画はおなじことをしているようで、完成品をもっていく先がちょっとちがう。目的がちがうのだ。
写真が登場し、「あるがままの姿をえがく」ということから意識的に遠のこうとしている絵画にたいして、「ホントにそうかよ・・?」と問いかけてみたい。写真がすばらしい表現様式をもたらしたのなら、その良いところを取り入れてみよう。そうすれば、絵画にはもっとすばらしいことができるかもしれない・・。
「写真」と「写真のように表現する絵画」。たとえばカペッロが描いた花(このファイル中の画像)。もしおなじものを写真に撮ったとして、写真とこの作品と、どちらがより「現実」に近いかを、あなたは言えるだろうか?カペッロの作品に漂う妖し気な現実のほうが現実的、と感じるひとがいてもおかしくない。
そもそも人間が見ているものとはなんだろう?ゲンジツゲンジツとは言うけれど、ではその現実っていったいなんなんだ?「あらハンサム。」とか「すげぇ美人。」とか言っても、そのハンサムの鼻毛が出ているとか、美人の鼻がすこしまがっているとか、そんなところは見ていない。
とすると人間は、現実から感じとる「印象」を見ているのかもしれない。あるいは、「見たい」とおもっているものだけを見ていることだってある。こういうふうに考えてくると、「スーパーリアリズム」ってのはおもしろい。
※ ファイル中の作品はフランチェスコ・カペッロ
(2002.03.04.)