EKAKINOKI

現代アートの多様性

なにに美しさを感じるかはひとそれぞれ・・・自然に美しさを感じるひと、造形物に美しさを感じるひと、社会的なものに美しさを感じるひと、、論理的な美しさ、情緒的な美しさ・・・

だけど美しさへの衝動、それがたぶんアートなんだとおもう。それをどこでどのように表現するかはひとそれぞれで、だからなにがアートでなにがアートでないかなんてのもあるはずがない。

生き方にもアートはあるし、政治の駆け引きにも、国際金融の修羅場でお金を動かすひとたちにも、、どこにだって美しさの追求はある。絵を描くことや彫刻を作ることももちろんアートの一角だ。ヨゼフ・ボイス(1921-86)が言った通り、すべてがアートでありうる。

Fulvio Colangelo

じゃそれらがすべてアートとしてとりあげられるかというと、アートがそういう多様性にたいして寛容になったのはごく最近のことで、以前はいうまでもなくアートといえば絵画と彫刻などにかぎられていた。なにがどうなってアートは寛容になったのだろう?それはアートが変わったから?それとも社会が変わったから?

クリストというアーティストがいる。建物を梱包したり巨大なカーテンで自然を仕切ったりするあのひと。「循環しているものを遮断することに美しさを感じる(※)」というクリストの美的世界はさておき、クリストがすごいのは、みずからの美の強力な執行人であることだ。そしてそれは自動的に「社会のアート・リストにクリストというあらたな項目を付け加えること」を要求している。

現代社会はというと、アート・リストにあらたな項目を加えることにやぶさかではない。しかしそれはクリストのアートが「産業化社会における近代の梱包妄想にたいする風刺のきいたシュルレアリスム的な批評行為(※)」だからでも「土に帰れ的な感情、多くのヨーロッパ人の心をとらえる一種のフロンティア・ロマンティシズムの反映(※)」だからでも「アートの新しいタイプのはじまり(※)」だからでもなく、アート・リストにあたらしい項目を社会がつけ加えたがっているからだ。

20世紀初頭のマルセル・デュシャンの便器以来、アートはその領域を広げまくってきた。それは、具体的にアートがそういう展開をしてきたからというより、「すべてがアートでありうる」という信念の実践、社会に多様なアートを認めさせるそのことじたいが目的であったかのようにみえる。もちろんアートがそんなことを意識してやるわけがなくあくまで結果論にすぎないけれど、そのことが社会をアートの多様性に対して寛容にしていったんだとおもう。(まだ控えめにですけど)

だから多様なアートといっても、、、アートじゃ〜〜〜ん、美の追求だよ。その「美」が多様であるということ、「美」を表現する手段が多様化したということを除いては、とりたてて新しいこととかこむずかしいことをやってるわけじゃない。インスタレーションにしたってアース・アートにしたってパフォーマンスにしたって、、有史以来どっかのだれかがなに気なくやってたかもしれないことを、社会にアートとして承認させてきたって側面のほうが大っきいとおもう。

(2005.05.29.)

(※)の印がついている部分は、カルヴィン・トムキンズ著「ザ・シーン(PARCO出版)」よりの引用です。

かんれんファイル

■ クリスト
■ ヨゼフ・ボイス
■ これってアート?

絵画 ロシア イタリア