EKAKINOKI

"戦場のピアニスト"

"The Pianist" / ポランスキー監督 / 2002年 / 仏=ポーランド / 2002年 カンヌ国際映画祭パルムドール

戦場のピアニストユダヤ人大虐殺(ホロコースト)みたいなとんでもない大惨劇がテーマだと、ロベルト・ベニーニ(Roberto Benigni)の『ライフ・イズ・ビューティフル(1998年)』のように、「ひたすら前向きに生きよ〜!」みたいなポジティヴな生き方が出ている、そういうのが、近年見た映画のなかには多かったようにおもうのです。

それと『戦場のピアニスト』は表題通り『ピアニストもの』で、舞台はショパンのポーランド!ロマンチックそー、おおいに泣かせてくれそー、内心期待します。泣いたかなすこし・・けど、

「戦争なんか映画にしたってちっともおもしろくないよ」というきわめて正常で現実的な感覚で、監督ポランスキーは『戦場のピアニスト』を作っていました。かなりリアル。映画のために不自然に誇張されたところとかハシャイダところとか、あまりなかったようにもおもいます。これは、ポランスキーが母親を収容所で亡くしているとか、じっさいにホロコーストの当事者だったからなのでしょうか・・?

政治とはほとんど接点がないピアニストが、秘密の隠れ部屋で、ピアノも弾けず、話しをする相手もなく、することもなく、食うものもなく、音もたてず、ただ生き延びるためだけに生きているのです。二ヶ月や三ヶ月ではありません。数年にわたって・・でもなんのために??

ピアノを弾きたい?モチロン!だけど、それだけではない。弾いて、ひとに聴いてほしい。ひとを感動させたい。もうそれだけ。それだけですが、これはつよい、なんてもんじゃない。アーティストの本能です。アーティストの生そのものです。じぶんの身にさえなにが起ころうが知ったこっちゃない。ピアノを弾くまで生き続ける。

これは、ホロコーストじゃなくたって言えてますよね。そしてこれが、『戦場のピアニスト』の慎ましいメッセージだったような気がするのです。シュピルマン(主人公)が弾くショパンをドイツ人将校が聴いて、結果的にそのドイツ人将校がシュピルマンを助けたという場面は、それを象徴しているようにおもえます。

やはりこれは『ひたすら前向き』の一種でしょうか?そうとれなくもないかもしれません。しかし『戦場のピアニスト』は、見るひとを『ひたすら前向き』な気分で感動させるというのではなく、グイ〜ンと激しく現実のほうに引っぱり込みます。映画っぽくはできていますが、おそろしく現実的な味付けです。やはりポランスキーは、ヒトクセあるぜ・・

(2003.05.17.)

つけたし

『戦場のピアニスト』の原著は、ウワディスワフ・シュピルマンが実際に経験したことを第二次大戦後すぐに書いたものです(← 禁本だった)。映画のなかの主人公シュピルマン=著者シュピルマンであり、シュピルマンを助けたドイツ人将校は、1952年ソ連の収容所で死亡しました。

ロマン・ポランスキーについて

Roman Polanski 1933 -

ロマン・ポランスキー監督作品リスト
http://village.infoweb.ne.jp/~fwnk1502/film2/pol..

ロマン・ポランスキー略歴
http://homepage2.nifty.com/weird~/polanski.htm..

かんれんサイト

『戦場のピアニスト』の訳本(春秋社)および映画の紹介
http://www.shunjusha.co.jp/news/2003/01/pia..

かんれんファイル

■ アルメニア・ホロコースト

BBSより

えかきのき

ところでちょっと気になったこと・・・

綱渡り的にナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を逃れ、いろいろなひとたちに手助けされて、シュピルマンはどことも知れぬ隠れ部屋にひそんでいました。ピアノがかたわらにあったりするのですが、音を出すなんて、かんがえられません。そんなときシュピルマンは、ときどき指を宙でうごかしてピアノを弾くまねをしていたのです。

あれ・・するだろうか?するかもしれない・・。でもなんかヘンだなぁ・・

ところでファイルのなかでベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』にふれましたが、ベニーニはホロコーストにおはなしを借りただけ。べつにナチのホロコーストじゃなくてもあの映画は作れた、とおもう。そういう意味では、ポランスキーはホロコーストともろに向き合っていた。だから、見るひとは『現実』を突きつけられちゃう。

TOM さん

私は映画監督としてのポランスキーファンなので、今回もとても良いと思いました。ナチものとしては『シンドラーのリスト』のようなハリウッド的おためごかしではなくドキュメントタッチでおっしゃるとおり現実を淡々と描いてゆく手法はとても意味があり、アカデミー獲得を賞賛します。

ただ、「ピアノを弾きたい」と必死に生きながらえた・・・とは私にはあまり感じられなくて。戦時下、差別迫害される身におかれた「個」としてその才も名も人間性も尊厳も剥奪された「個」としている人間であって、ただの職業としてピアニストがあるという。

生死を分けた理由も有名なピアニストであったという特権ではなく、ナチの犬と化した元友人の引導による救いの手にのったという自分にとっての「業」を負わされ、結果的に家族を見殺しにしてしまう悲劇。また、ピアニストであることは強制労働下では意味がなく、むしろ非力さがマイナスな立場にいながら「運」によって死から逃れていたのは、助かる確率として他者と同じ。

極限状態、飢えながらぎりぎりで生きる人間はただ「生への執着」のみ。「なぜ生きていて、逃げるのだろう」という思考さえ剥奪された家畜化される人間性も露になっているのではないかなぁと。ただ運良く生きていた。食べていた。命があった。

確かに、ドラマ的にピアノを弾いたことが最後の救出につながったわけですけれど、それまでの生死には差別はなく現実に流されてゆくだけで、命からがらなのはそれはナチスの兵士たちも同じ、誰もが歴史に翻弄されていると感じました。それが現実。

主人公としてはあまりに寡黙なピアニストは最後まで呪いや悲しみや苦しいという憎悪の言葉を発さず、助けてくれた人に対して「ありがとう」と礼を繰り返すのみの存在になっていました。とても受動的な。ヒーロー化されていなくて良かった。

また、主人公が何も言わないことから、その意思をどう受け取っても鑑賞者の自由であるとも思います。

現実の戦争映像が連日流される中、それは歴史を伝える手段としても負けてはいなかったと思います。多くの人に史実を感動とともに伝えるためには映画が有効。このタイトルを聞いて危惧した、まさに「芸は身を助ける」だけであってはならないとも思いました。

えかきのき

「人間としての尊厳もなにもかも無視されたたんなる『個体』でしかないニンゲンにとってあるのは『生への執着』だけ。」というのは、文学的にはとてもうつくしいけれど、客観的にはそうなのかもしれないけれど、でも本人にとってはどうでしょう?『生きる執着』というのは『希望』のことでしょ?なんらかの希望がなければかんたんに死んじゃうよね。べつにホロコーストでなくても。

芸術家にとって希望とは、とりもなおさず『芸術(クリエーション)』ですよね。芸術家にとって『生きること=クリエーション』でしょ?それ以外になにもないんじゃない?でなければ芸術家ではなくて、ただのピアノ弾きですよね、あるいは職業としてのピアノ?

『ただ弾くことだけをかんがえて』というのは、意識するとかしないとかのモンダイではなくて、それが彼にとって『生きること』であり『唯一の希望』だったとおもえるからです。ホロコーストでなくても、ほかのいかなる状況でも、それはおなじだとおもいます。

じっさいにシュピルマンがどういうひとだったかというのは、ひとそれぞれとらえ方がちがうとおもいますし、またべつのモンダイですよね。ただシュピルマンが政治とはほとんど無縁なひととおもえたので、よけいに芸術家としての側面がきわだって感じられたというのも事実です。

どうでしょう、やはりピアノはシュピルマンが生き残ったことと無縁でしょうか?

TOM さん

・・・・・ ずいぶんと違うところに向かってしまったんですけれど、たぶん、すれ違っている部分は・・・最初の受け止め方、見方なのだと思います。まず、私は「ピアニストが生きた理由」とか、職業(生きがいでもいい)があってのユダヤ人迫害ではなくて、一人のユダヤ人があの大戦下いかに生き延びたか・・・の方を重視したせいだと思うのです。それはもしかしたら映画の主旨ではないかもしれないですね。タイトル的に、商業的に。

ですが、「有名なピアニスト」「うまいピアノと引き換えの」というのがとても怖かった。有名人だから、芸術家だから、何かの特権を得られるというのは描かかれてほしくないという。もちろん、世の中にはそれが当たり前としてあって、同じ政権下でユダヤ人文化人が特権で亡命していることありますし、それも現実。でも、映画化においてはそういう描き方には反発だったんです。

そして、その芸術家の神格化というのが最も避けたい問題だとこの映画を見る前に願っていたのです。その危惧は問題なかったというのがひとつ。 ・・・・・

えかきのき

ひとつの映画の感じ方がこれだけ違うということですね。TOMさんがおっしゃられていることは理解できるつもりです。モンダイにしている視点もたしかに違うとおもいます。<ピアノが弾けるがゆえに救われたというヒーロー化だけはイヤだった。>というTOMさんの感想には、なるほどなとおもいました。

TOMさんの意見をうかがっていると、どういう視点からあのファイルを書いたのかがすこしづつはっきりしてきます。それはたぶん・・シュピルマン本人にとってはどうだったのか、なぜシュピルマンが生き残ったのか、そういう関心からだったのではないかとおもいます。そしてそういう視点からすると・・・

『ニンゲンの尊厳もなにもないただの個体群の生死を左右するのは偶然』とTOMさんがおっしゃられるのも事実だとおもいますし、またそのような状態でも『どれだけ生きる願望・希望があるか・・その差が生死を左右する』というのも否定しきれない、とおもうのです。偶然と願望と、その両方の網をくぐり抜けたほんのわずかのひとだけが生き残る、そんなふうにおもわれます。

ただいっぽうで・・・ある意味で『満腹』している者同士が『極限状況』や『飢餓』がどのようなものかをうんぬんするのは、抽象論におちいるだけであまり意味がない、ともおもいます。(『極限状況』や『飢餓』について語るな、ということではありません。)それと、『極限状態と日常』は両極端にあって相入れないものではなく、日常のなかにもある種の極限状態や、それに至る萌芽のようなものがたくさんある、ともおもいます。

しかし昨日返事の書き込みをしたあとで、ソルジェニーツィンが強制収容所について書いていたことなどをおもいだしていたのですが、そうするとよけいワケが分からなくなりますね。結局こういうのは・・『やってみないとわからない』。でもわたしなどがそういう状況に置かれたら、たぶんイチコロのクチだとおもうので、やはり結論は拝めないですね。

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