ヴィクトル・カリャーキン
「農民が自然賛歌をする」というのはあまりピンとこない。でも農民は自然のありがたさをじゅうぶんに知っていて、自然への接し方にはおおらかさがある。

高尚な議論はしないかもしれないが、じつはそれ以上のことを知っている。ガンコで伝統的な振舞いをするかもしれないが、その一方でひじょうに柔軟な思考をもっている。
釣りをし、猟をし、村のバールでワインを傾け、仲間たちとトランプに興ずる。そうして子供時代が、青春が過ぎ、結婚し、こどもができ、やがてはじいさんばあさんになって孫たちを目にする。
都会人からみれば「のんびりした時間」ぐらいにしか感じられない村の人生はあまりにもあっという間に過ぎていく。そしてそれこそが「自然の時間」というにふさわしいのかもしれない。
カリャーキンはもちろん農民ではない。しかし週末になると仲間たちとヴォルガ川河畔の湿地でウサギやらなんやらを追い掛けまわしている。だからか作品を通してもつたわってくる自然とのスタンスに、農民のそれに近いものを感じる。

カリャーキンはソ連時代のアカデミズムとは袂をわかって好きなように風景を描きつづけてきた。そのために画壇からソッポを向かれたりもしたが、自然礼讃ではない、自然のなかからジクジクと湧き出てくる「慈しみ」みたいなものがその作品には感じられる。
(2003.05.12. 見直し)
カリャーキンかんれんファイル・・・ 朝(作品紹介)