1919年、パカロフスクで生まれる。パカロフスクはいまのマルクス・エンゲルスで、サラトフ県の首都サラトフ(モスクワからヴォルガ川をくだってアストラカンにいたるまんなかぐらいに位置する)にくっついたような町です。ムィリニコフが生まれたあとのことですが、ドイツ人の強制居住区となり、名称もマルクス・エンゲルスと変更されています。
ムィリニコフはこどものころペテルブルグに移り住んでいます。母親と、母方の叔母が、ムィリニコフの美術への傾斜に貢献。母方の叔母はパリでも勉強した画家でした。叔母マリアの家はさながら文化サロンで、あまたの複製画に囲まれていたそうです。ペテルブルグでの美術学校時代(アカデミー以前)、学校の監修にあたっていたのが有名な画家のペトロフ・ボトキン(1878-1939)。つまり、ムィリニコフは画業の最初から、かなり恵まれた環境にいました。
1938年、ペテルブルグ・レーピン芸大建築学科入学。専攻は建築でしたが、絵は描きつづけていた。そればかりではなく、プロの画家になる夢をつねに抱き続けていた。あるとき、学内展示会があり、ムィリニコフの絵が絵画科の教授の目をつよく引きます。教授連の勧めを最終的に受け入れたムィリニコフは、建築科の3年級から絵画科の2年級へ編入。モニュメント科でも研修をかさねたようです。
1941〜42年、ペテルブルグのレーピン芸大は、戦争のために閉鎖になります。学校は戦火を避けて一時サマルカンド(ウズベキスタン)に移転。ペテルブルグにとどまった教授のなかにはキピルなど、「餓死」したひともいました。サンクト・ペテルブルグは、スターリングラード(現ヴォルゴグラド)とならんで、対ドイツ祖国防衛戦の激戦地でした。
ムィリニコフも一兵士として従軍。そのあいだも絵筆は折りません。制作した作品が42年には展示会で著明なグラフィック作家ビリビンの目にとまっています。こののちサマルカンドに移転していた大学に合流。
この時期、グラバリ教授と親しくなっています。グラバリは、シロフ(1865-1911)などと似た傾向で、かなり厚い油の塗り方をするモニュメンタリストです。サマルカンドという土地柄、この時期ひじょうに明るい色彩で作品を制作したのは、ムィリニコフでなくても頷けるでしょう。1944年ペテルブルグに戻ります。
こののちの、キエフで数年古ロシアモザイクを研究。1960年、ヴェネツィア・ビエンナーレに参加。現ペテルブルグ・レーピン芸術大学教授。ロシア美術界の重鎮。
■ アカデミック(アカデミー会員)について
■ モニュメンタリスト
(2001.06.24.)