EKAKINOKI

エフセイ・モイセンコ 1916-89

「ソヴィエトのプロパガンダ作品」、とおもう?風景画や静物画、ポートレイト以外のジャンルで、才能に恵まれた作家が、ソヴィエト社会で抹殺されることなく画業をつづけようとおもったら、社会権力となんらかのかたちで折り合いをつけなければならなかった。星の数のような作家たちが、はた目には「プロパガンダ作品」とおもえるような作品を制作をした。

しかし、その「社会的主題」にとりくんだ作品のなかには、「みてくれ」を乗り越えるような、アーティスティックな価値をもっていたものも、稀にある。たとえばいずれこのサイトでもとりあげるつもりのペトロフ・ボトキン、・・・、そしてこのモイセンコ。

1916年、エフセイ・モイセンコは白ロシア(現在白ロシア共和国、大統領ルカシェンコ、首府ミンスク。)の農村に生まれた。革命後のソヴィエト社会に、すぐさま「すべてのひと」のための学校とか病院とかが出現したわけではない。大都市以外の農村では、混乱のあとの荒廃、なにもない状態、みたいなほうがふつうだった。教育にかんして言えば、「リックビス」と呼ばれる、「読み書きソロバン」を教える成人教育のための教育施設があるばかり。モイセンコもそんななか、おそらく10代の半ばまで、まともに教育と言えるようなものは受けていない。

モイセンコは15才のときモスクワにやってきた。「美術産業工芸学校」に入学。モイセンコがはじめて受けた教育らしい教育だ。やっていた仕事は簡単に言うと、「お盆」つまりトレーのようなもののうえに絵を描くことだった。ここでモイセンコは、すばらしい絵の才覚を発揮する。1935年、仕事が美術界の大御所に認められてアカデミーに入学を許可された。モイセンコは、ここでも1年級をたったの3ヶ月間で終了している。

1941年、戦争のために学業を中断し従軍。1945年、復学。1946年には、すでにプロの画家として認められている。

モイセンコはいっさい下絵なしに、すばやく作品を制作した。その作品も、中途半端なおおきさのものではない。おそらく、かつてトレーに絵を描いていたころに、インスピレーションをすばやく絵にすることを習得したのだろう。モイセンコの作品には、主人公たちのムーブメントとモチベーション(なにをしようとしているのか)が、一瞬に凝縮されている。これは、あきらかにモイセンコの制作スタイルにおっている。おなじ絵を、下絵をきっちりやって、しかも時間をかけて制作したら、ただ重厚でクラシックな、議事堂のお飾り的なものしかできなかっただろう。

しかもこの即興には、絵画としてのたしかな構成とデッサンの裏づけがある。モイセンコはいっさい下絵なしでこれほどストーリーある作品を制作したが、それ以前に無数のスケッチをするのがつねだった。これらのスケッチは、それだけで作品として成り立つほどすばらしい。

ペテルブルグ・レーピン芸大で教授。アカデミー会員。モイセンコの名は当時神話でさえあった。思想統制のきびしかったソヴィエト時代を生き残り、天才的な画才を発揮した、稀なる例と言っても過言ではない。1977年、ギリシャを旅行してからのギリシャ・シリーズがある。1989年、逝去。

かんれんファイル

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(2001.06.24.)

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